art-P capsule

フリーMC。2004年から映画とロックを作っています。ジャンルレスボーカルや表現を生業としている日々を記しています。2004年12月より毎日更新。

善哉(not夫婦)

rubenjuri2010-01-02

皆様。
明けましたか。
juriめは、今年からの3年間は、明けていただくスタンスで漂うスタンスです。
やることは一緒で、創作についても変わらないのですが、例えば、名義とか、そういう方向で。
関わる方の色に、或る程度、染まりながらの活動を心がけたいと思っています。


チビチビの頃の、9歳頃のインプットは、音だけで、歌詞はガキだから解っていなかった筈だと、既述しましたが。
私の、一連の、右脳で発想して左脳でアウトプットするという、この表現からみても、やはり、姉の言う通り、あの頃もいくらかは解っていたのだろうな、と、ここ、数日で、わかってきました。
小5の時。担任に、「juriなら犯人の親の気持がわかるだろう。みんなに教えてやれ。」と、突然、あてられました。
ええ。わかっていました。でも、空気を読みました。小5ですよ、小5でわかっちゃ、ならない事です。だから、言いませんでした。
「なんでだ?おかしいなぁ。juriの書く詩や文章や冗談からしても、全部、わかるだろう、今回の銀行強盗事件。」
とても顔を上げられませんでした。担任に嫌悪感を抱きました。
先月、CDが届いてから、毎日、小椋佳を聴いています。琴線に触れ、揺さぶられる曲は、あの頃と同じです。そして、そんな曲は、起承転結で覚えていました。いわゆる、チビチビ特有の写真記憶とか、そんな事も流行歌ではもちろんありましたが、それとは別で、ゆっくりと頁を捲るように、覚えているのです。
ガキのくせに解っていて、その記憶のまま、今、充分過ぎるほどの年齢になり、人生に準えて、痛みがあり、辛くて、そんな荒療治で以て、CDと一緒に歌っています。毎日。


そんな風でも、最近わかった事があって。
伴侶(過去)や恋人に、決して言わなかった事があって、逆に、言われたら、責めているのじゃなく、「そんなの、どうして言えるの?例えば、我が子に言えても、だからこそ、言えないけどな。」なんて。「好きは言えても、愛してるなんて、簡単には言えないよ。」なんて。「言わないでね。大好きだから、大大大好きだから、それは言うけど、愛してるは、言いたくもないし、聞きたくもないから。」なんて。
すごく普通に、全然責めてなどなく、当たり前の事として、言い続けていました。どのパートナーにも。
相手は、キョトンとしますが、まぁ、大丈夫でした。絡みにくいだけなのでしょうけれど。
でも、「愛している」という気持ちは、我が子以外にも抱くのだと、2年前に解りました。
遅い。
恥ずかしいです。


ずっと、ずっと、会いたい方がいて、今日、初めて、写真を拝見して、涙が止まりませんでした。写真で充分だと思いました。
全てが、初めてで、多分、この歳になるまで知らなかった事ばっかりで、対応しきれないのでしょう。
いけません。
もっと若い頃に解っていなくちゃあ。


極論を述べさせようと迫る大嫌いな担任。
社会が専門の担任は、私には、社会の成績をくれなかったけれど、思えば、国語と音楽はトップをくれていました。
いい先生だったのかも。
でも、イヤな思いばっかりだったんだもん。
ママと社交ダンスしたがったり、「お母さんは?お母さんは?」って、訊いたり、大山登山の頂上の記念撮影でまんまとママの横に来て、カメラ向けられたら、ママの肩に手ぇ回したり、貧血で倒れて気がついたら保健室で、隣に寝転んでたり、げーーーーーー。
すんごい人気ある先生だったけれど、私は嫌いだった。でも、思春期の入り口だったからだな。
今、思うと、よく見ていてくれていたんだな。
ママ目当てが発端だったにしてもね。
やっぱりやだ。