art-P capsule

フリーMC。2004年から映画とロックを作っています。ジャンルレスボーカルや表現を生業としている日々を記しています。2004年12月より毎日更新。

ここのつ

rubenjuri2009-12-15

小椋佳ってより、星勝アレンジの小椋佳がとっても好きで、他のそれは、全くと言ってよいほど、興味がなくて、アルバム1枚だけ持ってて、それを、聴いていた9歳のjuriでした。
9歳ってば、charがデビューして、カッケくって、そんな感じなんで、そりゃぁ、そうです。大半の小椋佳は、違うんでしょうね。
10コ上の姉が、当時からよく言っていました。
「juriは理屈っぽい歌詞の曲が好きだよねぇ。」って。
ガキですから、そこまで理解はしていなくて、多分、音の方だと思います。
オフコースも、鈴木さんの曲が良かった。
姉とは、音楽の趣味は正反対でした。
兄貴は、どんな趣味趣向だったのだっけなぁ。
もの心ついた頃には、既に兄貴の部屋にはデラックスなオーディオセットがあり、ギターも何本かあったけれど、友達が押し寄せてきては、その人たちが触っているってのしか、覚えていない。私が夜中に目覚めてしまって恐くて廊下に出ると、怖がらせる為に、兄貴が部屋からエレキギターの怪しい単音を出してきて、泣いたものだが、それくらいかな。
兄貴の急逝後、或る人が、兄貴のフルネームを出して「○○という男が居た。」と、日記にアップしていた。兄貴の部屋で音楽をしていた友達の中には、ミュージシャンになった人も何人かいて、うる星やつら?とかの音楽担当の人とかもいたらしく、多分、チビチビで4歳とか5歳とかだったと思うのだけれど、みんなにいじられながら、「juriちゃんメトロノーム持ってきてよ」とか言われて、はいはいって、持ってったりしたっけ。そん中に、確か、“ブンメー”とか呼ばれてたお兄ちゃんがいて、その人かな、音楽家になった人。
でも、とにかく、兄貴が好きな音楽とか、よく知らないし、楽器、していた記憶も、ない。
へんなの。
脱線するけれど、とりあえず、買い与えられていたのかなぁ。長男って、大切にされてきたんだな。これを言うと、ママが「juriが焼きもち焼く」って、喜んでみんなにふれ回るんだけれど。帰省したら、お布団から違ったんだもの。
「○○という男が居た。故郷で、あの時代に、あれだけのものを持っている奴は、珍しかった。」
って、そんな感じで、記してありました。
本当の兄貴は、パパと、現実世界では絡まない、art-P噴霧劇の中でだけ、生き、歌舞く、おちょけた男なのだろうか。
そういう意味では、今も。
9歳ってば、兄貴は高3。もう、大学進学で、お別れの頃です。もう、そこで、兄貴とは、お別れだったのかな。たまに、DEREK兄貴とかが、ほっぺを人差し指でチョンってすると、その頃に戻る自分が居ます。ファンデーション、落として来たらよかったなって。


なんか。
だいぶ、疲れているか?気の持ちようなのに、莫迦だなぁ。莫迦ぁ。
チビチビの頃って、同年代と、どんな会話してたんだろう。音楽の話は、どうしてたのだろう。ジュリーの『思い切り気障な人生』とか、ひとり、聴いていたけれど。でも、百恵ちゃんとか、大好きだったし、孤立はしてなかったと思いたい。お楽しみ会の戯曲はいつも書いていたし。とりあえず、80年代アイドル黄金期も、思う存分、楽しんだし。モノマネもやり尽くしたし。
んー。
楽しかった。
そういやぁ、先日、umeがたおちゃんに、「とにかく基本的にjuriは振り返ることしかしない。前を見るなんてことは、ないと思っていい。」って、言っていた。


ホントだ。


やだなぁ。
もう。
でも、そればっかりでも、ないのだぜ。マジでマジで。
いーかよくおききなさい。なんの為の振り返りか。
なんの為の暑い日の盆帰りか。
時には、こんな風に、とりとめなさ過ぎる過ごし方も、します。
時には?
まぁ、いい。
いいさ。