「1度発表したら、作品は作家の手から離れるのや。カンネンせぇ。」
6年前、そう諭したのは嘉事氏です。
例えば、音符が散りばめられているグラスを作ったガラス作家は、
納品した店に来た客が、
限られた中からふたつ、真剣に選び、持ち帰り、手に握り口に運び暮らしを託し見つめ胸なで下ろし・・・云々・・・云々・・・、
そんな中心アイテムであることなど、知る由もないのでしょう。
「juriさん。『鉄腕夫婦』を絶対に観るべきだと思う奴がいて。みせてもいいですか?スクリーンでみせたいのです。それで、相談しているのです。」
6年前、イベントのオファーでもない、私に対してでもない、ただ、ただ単純に、作品の内容を感じて、持ちかけてきてくれた人がいました。
「あいつ、観るべきなんです。取り返しがつかなくなる前に、観ないとならないんです。そこに、立ち合ってやりたいんです。出来れば、juriさんも。居てくれるだけでいいんです。愚かなんです。観るべきなんです。」
例えば、不注意でグラスを落とし、ひとつを割ってしまい、しばらく憂いて、遠方のその店に電話し、でも、ひとつ注文するのではなく、やはり、「ふたつのバランスを見て選んでほしい、任せますから。」と、片割れは片割れとしてひとつだけにしていたら。
「『鉄腕夫婦』は記録資料としても価値のあるものである。」
例えば、新しいペア・グラスが来て、結局、片割れも間もなくあっけなく割れてしまい、連れ合いとは、そうでありたいものだと、そう、願ってみました。
「juriさんは何の魂胆もなく作ったのだろうけれど、『鉄腕夫婦』制作はいいことだったんだよ。」
例えば、少しだけ、強度を増したような印象のある、新入りのペア・グラスは、それからも何度も不注意で手を滑らすも、そのぬくもりと繊細さと強さを誇って見えました。
私は、エゴで押し通しました。
撮りたかった。
どうしても。
それを取り上げられたら、兄貴のところに行くしかなかった。
撮れると思った。
根拠なく思った。
根拠を以て、おっと氏がサラリと助けてくれた。
アンタが言ったんだよ、出来た時に。
そう言ったんだ、嘉事さん。