勉強の収穫は思わぬところから得る。
成る程な。
全て自分だということ。
「パートナーは何故遠回りをするのか」というのは長年の疑問だった。
私とパートナーになる人はどの人も何故決まってわざわざ遠回りをするのか。
例えば、瞬間に方角や方向、細かく言えば入るべき店もわかっているのに、相手はそこをわざわざ避ける。
そして私の主張は拒否されることがわかるので、第三者が一緒にいる時に第三者主導でその店を選んでもらうと、パートナーはその店をそれまで避けていたのに、たった1度のその店の経験で、その店に1人でも通うことになる。
何年越しかでそれを果たしてきた。
何度も何度も、そんな風に、一瞬の判断に何年もかけて到達してきた。
わかったのは、それはパートナーの所為ではなく、私のように一瞬でわかることが当たり前のことではないということだからだった。
普通は一瞬ではわからないのだ。
一事が万事。
それだけではなく。
大人になる前から、早くからそうだった。
ママとの関係もそうだったのかもしれない。
そして特筆すべきは、遠回りが必ずしも良くないというわけではないということ。
どうせ。
どうせママは反対する。
そんな風に最初から何もかもを諦めて生きてきたことにも意味がある。
どうせ。
どうせ彼はあっちが正解なのに右往左往して1日をつぶす。
12年前も、10年前も、あの時もあの時も、意味のない右往左往に辟易とすることもあって、結局最後の最後に仕方なく彼にとっては不本意な最後の砦的な方角に行ったらそっちが正解だったという事が多いけど、時には右往左往にも意味があったりする。
でもそれが人生で、そんな人が殆どなのだということ。
スピ系の人はシングルの場合が少なくないだろうな。
出かけると研ぎ澄まされて判断を誤らない。
出かけるのは億劫だと尚更だろう。
誤らないのに誤った方向に時間を費やすのは骨の折れることだ。
相手を好きだったら「ごめんな」と言われても「いいのよ」と言うだろうし。
アスリートもスピ系に近いだろうな。
動体視力はスピリットにも反映していると思う。
エンターテインメントの世界にいる人は尚更だ。コレは折に触れ此処で何度も何度も記してきたことだが。
ママが私の意思からの行動を何もかも阻止し、いつしか誰にも何も希望や夢を言わなくなったことには大きな意味があり、否、意味どころか、シナリオだということも確信し、今日を生きる。
パートナーと生きる上でも楽になった。
本当に楽になった。
自分がどういう人間かを直視していなかったのが原因だった。
腹を括り直視し進み始めた今、楽に生きる術を身につけたと至福だ。
喜びでしかない。
わかったのだ。
ありがとう。
アボカド半分に割ったら、ハズレだった。
使えそうな半量だけをペースト状にして、ドレッシングに。
美味しいよねぇ。
幸せです。