art-P capsule

フリーMC。2004年から映画とロックを作っています。ジャンルレスボーカルや表現を生業としている日々を記しています。2004年12月より毎日更新。

ありがとね、でも責めた。

rubenjuri2015-09-16

高校時代から現在まで途切れることなく親友であるMAMIと、中学時代のブラバンのパーカセクションのふたつ上のゆっこ先輩のお店に夕飯を食べに行った。
全然変わってない。



先輩は畏敬の対象であり、慕い続ける存在。
「はやしさんはとにかく真面目で可愛かった」
驚いた。
私は可愛がっていただいていたのか。
「私たちは仲が良かった。いつも一緒に居た。」
一方的に慕っていたのではなく、可愛がられてもいたんだ。
そして、キャラが全然違った。MAMIが驚く程。
MAMIが本当の私を説明すると、先輩は逆に驚いていた。
「はやしさんはおとなしい子だったよ。真面目で可愛くて。」
「実は。中学時代から、否、小学生の頃から、クラスや学年全体の中で歌う奴でした。女子の体育の先生が牛ちゃんで、男子の体育の先生が藤村だったでしょ?たまに、男女合同の体育授業の時、体育館で藤村が、「それでは最後にはやしの『哀愁でいと』で締めくくるぞ。集まれ。」って言って、歌い踊ったものでした。」
「ほんと?へー。そうだったの?」
先輩に対して馴れ馴れしい態度を取る同級生には、懇々と説教をしたものだ。
それが美徳なのかどうかは疑問であるが、ゆっこ先輩は私にとってはそういう存在なのだ。



不条理性は捨てるべきだ。
見届けるのだ。
己の行く末をね。
楽しかった。
きっと前世の窮屈さが反映していた。
故に
勝手に脅威を抱き、律し、友にも強要し、己を解き放つことを自ら禁じた。
其の渦から開放された時、
素晴らしさを実感する。



ラーメンを食べに行った。
ホテル白鳥でホットケーキと紅茶を食べた。
先輩たちと。
それは私しか憶えていない素敵な想い出。
ゆっこ先輩は私の食べ方の真似をしてウケていた。
いつも分析をしていた。
観察してくれているのを激しくテレる。
そして喜ぶ。
ただニコニコしている。



いろんなことを一緒に頑張った。
パーカッションは搬入・撤収がとても大変だった。
ティムパニのチューニングは手動だった。
練習は厳しかった。
パート練習の部屋は、動かさなくてもいいように楽器の準備室だったので、全パートの人と会う。
全体合奏の練習の時は、セクション的に最後列に起立しているので、空気も全部感じられた。
ケイセイ先輩はセカンドペットだったけど、ファーストの2個上の先輩よりも、否、絶対にプロよりも綺麗な音だった。
なんだって初験で出来たけど、1からやった。
顧問よりも先輩の指導が受けたいし、顧問に習うくらいなら初験の段階でできると言いたかった。



間違いなく素晴らしい日々だった。



ママが
鏡台の隅に私を追いつめ、「絶対に吹奏楽部じゃないと許さない」と小一時間責め続けた夜。
「ママが全部正しい」と万事を決められて生きた日々。
ただフリーズしていただけで
怖がったわけでもなく
洗脳されていたわけでもなく
面倒に思っていた。
生きていく。
起立する巨大な根っこ。
見上げる人は全て。
生きていかないとならない。



結果
ママは正しいんだぜ。