art-P capsule

フリーMC。2004年から映画とロックを作っています。ジャンルレスボーカルや表現を生業としている日々を記しています。2004年12月より毎日更新。

宿無しノラの淡々

rubenjuri2010-11-18

以前此処で述べたかもしれないが、祖父母・パパ・兄が眠る出雲の或るお寺の住職(姉が在学していた頃の島大の教授でもあった)は、講話を一切してはくれない。でも、4歳で祖父を亡くしたちびちびの頃から、そんなもんだと思っていた。
パパのお葬式の前後は家族の中で一番しっかり立ち回っていて、姉にお詫びとお礼の言葉をもらうという快挙を果たしたのだが、そんな折だった為、ハンカチなんて要るわけもなく、本葬に列席してくださった皆様の誘導なども笑顔でこなしていた。
住職ってば、「都合により行けないから、松江の○○寺の住職に代わりに行ってもらうから。」とかっつって、来なかったのだが、それによって、エライことになった故人の次女、juriだった。
生まれて初めての、浄土宗の僧侶の講話だった。
始まって10秒もしないうちに、号泣してしまった。ハンカチがない為、正座の膝に、ポトッポトッボトボトボトボトッと、涙が落ちる音まで響いて、一同が私を注目した。
だって、世間ではコレが常識だなんて知らなかったし。
深く染み入ってくる言の葉の数々。
遺族を癒す言霊のみなさん。
有り難くて有り難くて噛み締めて噛み締めて。
後で親族で寿司桶を囲みながら、本葬の時に隣に座っていた叔父が声高に演説し始めた。
「兄貴はjuriに最期世話してもらって幸せだった。俺はjuriが張っていた糸が一瞬で崩れるところを見てしまった。コイツはなんて奴なんだって、思った。」
みんな、しーーーんとしてしまった。お通夜か。まぁ、遠からず。


今日、全く同じ体験をした。
ポスターでレビューされていた評論を読んだだけで涙が溢れたのだから、或る程度は予測していたので、あの時と、シチュエイション的には同じ条件だったと、今になって思う。
パンを食べる気満々でハンカチなんて用意していなかった。
パンは箸とかは使わないから、貪る感じで食べながら読み始めた。
3頁目はまだプロローグだというのに、涙が出た。
パン屋さんの袋に涙の落ちる音がパチパチと響いて、恥ずかしい。その瞬間に、あの時の場面を思い出した。
涙の流れる勢いもあり、早く流れて大量だ。
一気にメイクも落ち、スッピン以下状態。
一度目はそんな状態だったので、もう一度、読み直した。
今度は絵を観ていくだけにした。
それでも、やっぱり涙が少しだけ出て、ポケットティッシュは丸々2個、使ってしまった。


夜。
み〜姉さんが来てくれた。
ゆっくり、久しぶりに、話した。
よかった。
まずはJAZZを長く歌ってきた時代があり、「今は、母国語の日本語の言霊を大切に歌いたいからよ。」って、私の質問にそう答えてくれた事、しっかり受け止めて、ミッションを遂行しようと、改めて思った。


文化とは罪深きものであり、セラピーであろうか。
精神が吐き出す歪な表現は、癒しとして還元。


私も、好きな人に、何を訊かれても「さぁ。」「別にそれは。」「わかんない。」って、無関心を装う態度でいる事が、よく、あります。
そうしたら、話が終われるからです。
それでも、一緒に居てくれたことに、感謝しています。
ありがとうございました。