art-P capsule

フリーMC。2004年から映画とロックを作っています。ジャンルレスボーカルや表現を生業としている日々を記しています。2004年12月より毎日更新。

クール考

rubenjuri2016-02-28

クールを謳うニ差Ryancであるが。

juriです、こんばんは。


ヘルン先生が強く惹かれた日本という国の人々について、「皆、常に微笑んでいる。」と。
逆に先生に日本人たちは言った。
「なぜ西洋の人はいつも怖い顔をしているのですか?」


大学時代の何かの科目の教師が講義中に何度となく言っていた。
「構内ですれ違う生徒が笑いながら会釈してくると、頭が悪そうだと思う。」
ドン引きであった。何を言うのかと。


何か釈然としないおっさんのせりふ。
何度となく耳にしたこのおっさんのこのせりふ。
学食でカレーを食べる時にはいつも水をふたつ。
合理主義者なのだろうが。
名前も
科目も
今となっては思い出せない。
履き違えた合理を主張しておけばよいと思った。


二差Ryancのクールはそれとは違う。
どちらかと言うと
寡黙な微笑みなのだ。


わかったことがある。
嫌悪するのは
表面的にしか見ることができない人に対してだということは認識していた。
それはセンスであり、背景にある生い立ちであり、そう、スピードだ。
表現に時間がかかっても、吸収と反芻は瞬時にすることなのだ。


「日本人は、辛くても微笑んでいる。」
“身に起こる悲しみなどあなたさまには関係のないこと”
「それを表す」
ヘルン先生は誰に教わるでもなく解釈した。


パパの脈を確認し臨終を告げられた瞬間から私だけが笑顔で振る舞った。
それは数日間続く。
姉もママも初めてお礼を言ってくれた。


いつもではない。
学校では「笑顔がない」とママが呼び出し食らった。
寝耳に水。自覚がなかったし。
もちろん中身もそのままだったことだろう。
しかし
だから振る舞えたあの日なのだ。


すなはちヘルン先生が言う日本人の本質とは、そこである。
そして、しかも瞬時に理解されたということが先生の持つセンスなのだった。


儒教の美学が全て良いとは思わないが、ヘルン先生は肯定してくださるのだ。


しかし
ヘルン先生の見解に得心が往き、納得するとなると、新たに見えたことがある。
仏頂面は上から目線なのだということ。
こんな風に文字にしてみると、成る程、字の如くなのだ。
ヘルン先生は舞い降りてくださったな、日本に。



かく結論付いた時、記述の教師を思い出したってわけだ。
なんと上からな物言いか。
如何にも目上の方なのだけれども。
それにしたって、微笑んで会釈をして文句を言われなければならないなんて。
わかってよかった。



クールとは、寡黙なうちに醸し出す背景を包み隠す所作なのだと識る。
それは
ステージに立つ時にのみ炙り出される。



これはなんと日本的であろうか。



連休最終日は、ヘルン先生とセツさんと“気が熟す”ということについてを考えたい。