妄想はいつでもどこでもヤッちまって自動制御装置効かない事だってあるけれど...。
昔、セガレが通っていた幼稚園の、そこの園児しか入れない“のの様”のお部屋に、セガレが卒園してからひとりで伺って、平に平に頼み込んで、内緒で入らせていただいて(ジコーっす、ジコー。)、その狭小の空間に1個、現身を置かせていただいて、ただ、ただ、居たのです。それは、曖昧で、あの時、白潟天満宮でママの目の前で空を飛んで怖くて泣いた経験よりも曖昧で、丸い中に、置かれた、己。小さくいらっしゃるのの様のお姿も、曖昧でした。もう一度だけでいいから、伺いたいです。
新居に引っ越してからは、よく、お風呂の脱衣所の、洗面ドレッサーのところに足が向きます。ドレッサーの灯りをつけて、愛しい曲をエンドレス・リピートでかけて、地べたにペタンと座ります。一日に一度はそこに行っちゃいます。とても、いいです。携帯電話は持って行きます。着信音で誰だかわかる人のみ、この空間に一緒に感じても安全です。夢にあらず、無にならず...。瞑想で辿る。
此処を、数年前に休んでいた頃、故郷に、一旦、別れ、告げ、
や、変わらず年に二度は帰るのですが、気持ちの中で、告げ、
カプセルに速やかにインサートされ、
微睡みと覚醒の等間隔に漂いながら、
サブリミナル片の繋ぎ合わせ。
繋ぎ合わせ。
欠片の。