art-P capsule

フリーMC。2004年から映画とロックを作っています。ジャンルレスボーカルや表現を生業としている日々を記しています。2004年12月より毎日更新。

徹夜トランプ

rubenjuri2011-05-08

セガレは予告通りの朝帰り。juriです、こんばんは。
「家では勉強せんよ多分」宣言は、5日の徘徊に端を発しておるらしいです。
俺様が駅前界隈でジャイアンたちと宴を設けておりますと、道に迷っていたのにジャイアンの笑い声がどこからともなく聞こえ、笑い声を頼りに会場にたどり着いたyuyaと北ノ山とともクン。
そこから遡ること3時間、セガレは、ちょっと散歩でもしようかなーなんて、旧市街地全域を、4〜5時間、歩いたといいます。
オメーぜってージャイアンの笑い声聞いただろ!?
ぜってー母たちの宴会場を把握しただろ!?
まーそんなツッコミもスルーされ、今回の希望的つぶやき的宣言を発しておりました。
「今夜8時にツッチーが来て、男のラーメンでメシ食って、マクドで勉強作戦パート2を徹夜でやるから。」
いつまでも正副部長のコンビは仲良しですな。スマイル0円に骨抜きなのか?
そして、今朝、帰宅。
「4時からは延々トランプだったわ。」
勉強じゃねーじゃん。
ってか、トランプ用意してる時点で、勉強じゃねーじゃん。


画像のガーベラは、母の日とは何ら関係ありません。
テントブラザーズのキーボード氏が「要らん」とキーラーゴに置いてったやつ、もらってきたんです。



流行歌手とは、3分半の戯曲を演じる役者たり得た。
70年代の彼等彼女等は、そしてスタジオミュージシャン等、カメラマン等、全スタッフ等、どのテイクのどこを切り貼りしても寸分違わぬ展開で表情を紡いでいる。
これがいい。
詰めていきたいというのは、そこだ。
ライブとは、映画と異なるのだから、詰めて、積んで、演らないとならないのだ。
総合芸術としての辻褄を合わせたい。
3つの職場での辻褄にも似るが、ライブというフラッシュの記録と記憶を、切り、貼る。
例えば、後奏で見せる表情を切り間奏にクロスディゾルブで貼るというフェイントもできる。
それは、何度となく目にする視聴者の記憶を回想のように展開させることが出来よう。
それにしても。
ジュリーのゴールドキャミソールは、セガレには悪いが、マイコーさんの比ではなく美しい。
ナンセンスな見解ですがね。



芳村真理ってば、ジュリーのこと、ジュリって発音するんで、いっつもドキッとしたものです。
とっても生意気な盛りの前の、純粋な、誠実な、自然な、ジュリーは最高です。
謙虚。
謙虚な殿方は最高。
だから、あの頃がいいのです。
いろいろ、ある前。
それは、本人の所為じゃないのだもの。
char然り。
桑名さん然り。


あの会話の間違いは是非とも正したかった。どんなに声高に訴えても無理だった。
いつだって、ちびちびの頃から、そのこだわりを笑われて終わった。
誰にわかってもらいたいわけじゃなく、たったひとりの人にわかっていただければ幸せだった。
でも、絶望しました。
80年代にさしかかりかけると、自分の中での本当の意味でのエンターテインメントは終わっています。
70年代後半をピークに、あとは、全部、違うのです。
その過渡期の苦しみは、ブラウン管を通せば、視聴者には伝わるのです。
苦しみの違いは、不毛なそれなのか否かなのです。
彼等の憂いは、表面と深層の混沌。
発言に責任を持てないのならば、楽しい会話など、できないのです。
歴史の成績は悪かったです。
でも、大切なのです。時代の流れは。
先人の軌跡があり、己が在るのだから。