イブですが。
イブですから。
未明の20分間のabsurdeへのいざないに身を焦がしてプレイしました。
デモを2曲エンドレスにし、己が筆する9年前の同じテーマの卒論を読んでいく。
例えばカフカが違う時代の故人であり
筆者とデモの作者が9年前の大学生であり、
己がその9年後の大学生であるということが奇しくも己にとってどれだけの証明になったことだろう。
毎年のサミットは1年だけのことではなかった。
もっとマクロにそしてミクロに宇宙と細胞を行き来する神在月。
何故、出会うのか。
そして証明されるのか。
生かされてみることのシュールと不条理と豊かさ。
乗り越えて遣り過ごす結果。
幻聴が調弦したスワンソング
それは“コッフェル(Quell)”
「二重の不在の犠牲者」がカフカであるとして
連続する過渡期の犠牲者が我々だ。
そして
己とプラハのユダヤ人
民族的異邦性
人々の根源は9割がた同じなのだろう。
しかし
それを遣り過し平然と生きる上級者ではない
それが或はいわゆる君の「生きにくい」というのかもしれない。
何処にも属していない
クールではあるが
それを自身は由としない
人間とは所属欲のあるものだ
カフカ
筆者
己
トライアングルが今
「絶望は、希望と同じくらいに人を豊かにする。」
だからどちらかに近い人間は、どちらかを選ぶ。
カフカ
君
私
トライアングルが今
「非存在」
「まだ存在しない」
「もはや存在しない」
驚くべきことは、カフカと最も遠いとしていた君が、ザムザ氏そのもののように思えることだ。
パースペクティブ
歪めたのは主人公だけではない
歪んだ世界の中に
歪めた主人公を投入していた
その、世界という舞台は、何を隠そう、現代だ。
不幸なのは
カフカの描く主人公とは違い、私たちは、この現代世界を歪んでいると気づいていることだろう。
今
己は俯瞰の位置だとして
君がもしかしてカフカの描く主人公なのだったら
筆者と共に
驚いて君を見るだろう。
愛おしいひとよ。
気付くことから救うのだ。
「僕は終末であるか、ないしは発端である。」
「いつか到着するということのない永遠の到着」
どちらかに近い場合はどちらかを選ぶ。
宇宙は知っている。
サミットでは議題に上る。
カフカはその時起立した。
ザムザ氏の父のように突然に。
どのトライアングルが救われるのか。
どれになっても
己は救われる。
2014.10.6
三原珠里
『J's Blue』『J's Swan Song』を聴きながら